お葬式って一体全体何が本当で、どうあるべきなのか?と思うほど、その儀式やマナーは千差万別あり、地域性も強い。そこで一般の方にわかりやすいように出来るだけ噛み砕いた最低必要限のコンセプトだけを整理してみたい。

  • 死者に対する弔いの感性は全ての人が持っている。

もともと葬送は宗教とは関係のない習俗的な儀礼であり、人間(のDNA?)にだけ備わった死者への弔いの豊かな感性。4万年前のネアンデルタール人は既に弔いに花を捧げていた痕跡が見つかっている。

  • 日本人独特の豊かな感性は仏教以前にすでに葬送文化を地域や集団社会の中に持っていた。

日本でも1万年以上前には葬送文化は存在していたという。
死者のご遺体に対する扱いこそ時代と伴に変化し、ハフリ(風葬)、土葬、火葬とその形を変えてきたことは判りやすいところだが、そのご遺体(遺された体)から抜け出るとされた目に見えない「魂」に対する手の差し伸べ方が、日本風土の中で習俗的儀礼として脈々と受け継がれてきた訳で決してわずか1500年前に外国から輸入された仏教にその根本があるわけではない。むしろ元々仏教の教えには葬送に関する記述などなく、各時代で手厚く保護され大衆に根付いていく過程で、供養という一環から葬送儀礼に仏教の手法(お経)が組み込まれていったと考えられる。ただ今日の形骸化してしまった葬儀の中では、我われに本来備わっている潜在的な供養観の本質が見失われていることが危惧されている。

  • あの世はこの世の裏返し?なぜ生まれてから死ぬまでを「半生」と呼ぶのか?

抜け出した「魂」を我われの先人はこの世で生まれてくる赤ん坊に見立てた。生まれたての赤ん坊の魂は、手厚く世話をしなくてはならないように、初七日、四十九日、新盆、一周忌、三回忌、七回忌と大人の魂になる33回忌の弔い上げまで喪主が面倒をみる(供養する)必要があるが、現実にはそれは不可能なため、その供養の役目をお寺の住職にお任せし、代わりに供養(養育)してもらっている訳でなる。そして33年経って大人になった「魂」は「神」となって神棚に祭られ、あの世で残りの半生を過ごすという輪廻の考えが基調となっている。
この世で生まれて死ぬまでを「半生」と呼ぶ理由ははここにある。そして十万億土でも、極楽でも天国でもなく、我われ日本人の先人の感性では、それは単に「あの世」であり、故人は遠いところにいるのではなく「草葉の陰」にいるのである。

  • 葬儀と告別式

前述の故人の魂に対する葬送の儀礼を略して「葬儀」と呼び、一般的には仏教を主とする宗教儀礼に則って執り行われることが今も大半である。最近は無宗教で行う方もいるが、その多くは儀礼的手法ではなく単たるセレモニーに終始しているのが現状で、喪主・葬家が宗教を嫌うが故の対処であるが、宗教儀礼に代わるスタイルが確立されている訳ではない。現代日本人の多くは仏教徒とは言えないが、昔からその時々で宗教を上手く利用する民族であり、氏子でもないが正月は神社にお参りし、その前日の大晦日にはお寺で除夜の鐘を聴き、さらにその約1週間前にはクリスマスケーキでお祝いするほどの宗教的に見れば節操のない民族であり、葬儀にも仏教のお経を上げてもらうことに多くの方は違和感を感じていないはずである。又、葬儀は元々日没時間に執り行われていたので、本来前夜に行う通夜と葬儀の儀礼を夜の一回にして翌日は出棺〜火葬とする家族中心の葬儀をする方もいるように、最近のように半通夜といった形式的な儀式になる位なら、通夜と葬儀と同じ事を2度も繰り返し行わず、

告別式は本来前述の「葬儀」とはまったく目的も対象も異なる式典であり、宗教とはまったく無関係なことなのだが、昔見られた葬列(野辺送り)に代わり、地域社会へのお別れの式典として戦後主流となった。式典なので本来宗教儀礼は必要ないのだが、高度成長期に都会で考えられた葬儀にこの告別式を合体させ、同時進行してしまたのが現在のお金のかかるお葬式の主たる原因となっている。つまり葬儀事態は本来家族・親族だけで宗教儀礼に則って執り行えさえすれば、装飾やもてなしに気を使う必要はなく、祭壇なども要らないから費用もかからないが、会葬者が参列する告別式を同時進行で進めることにより、地域社会の習慣に則ったスタイルが優先されてきただけであり、これは一昔まで葬儀は町内など地域共同体が主になって、その共同体の考え方で執り行うものであったからであり、現在のように地域共同体が存在せず、家族単位で喪主や葬家の考えで行われるようになった以上、この告別式の意味も形も家族単位で自由に考えるようになっている。

つまり、これからのお葬式・自分らしいお葬式を考える上で、この「葬儀」と「告別式」は別々分けて考える必要があり、最近流行の家族葬の考え方として、葬儀は家族・親族とごく親しい方だけで行うが、告別式は行わない人も増えている。高齢化と核家族化が進んだ中で、喪主層も高齢化していることや、前述の通り地域社会との疎遠もその要因と言える。よって行うか行わないかも含め、喪主・葬家の考えで自由によいのがこの告別式であり、ホテルやレストラン・居酒屋で葬儀とは別の日に行うことも自由である。その最たるのが生前葬と呼ばれるスタイルであり、生前元気なうちにこの告別式に当たる「お別れ会」を開く方も多くなっている。

  • お布施と戒名

喪主の中には親の代から受け継いだお寺との檀家離れも久しく、意味も価値も判らなくなったお経や戒名に価値を見出せなくなっている方も多く、葬儀の時のお経代にすらお布施の額が見出せない方も増えている。意味がわかななければ価値もわからないのは当然だが、前述しましたように故人の魂の養育費としての33年分の供養料を払うと考えればある程度ご納得できる方もいる。そして戒名はお寺のご住職が喪主に代わって供養してもらうことで、里親となる僧侶が里子を仏門に入れたことで里子に戒名を付けることになる。ですから戒名料としてはそもそも存在しないはずたが、嘗ての貴族や武将が仏教を保護し、又お寺を建立できるだけの寄付をしたことで院号(院は寺のオーナー名と考えるとわかりやすい)を授かった訳で、一般庶民が僅かな布施で院号を授かれる訳が無く、いつの時代からか多少財を成した商人などが生臭坊主にとりなし、大した貢献もせずに適当な寄付で院号授かる悪習が生まれ、後の院号の大安売りに一般民衆が乗せられたに過ぎない。戒名料として高額を払うことで故人や喪主が何かの価値を見出せる方は良いが、我われ現代人の多くはその意味すらわからず価値など見出せなくなっている。戒名を授かること自体は日本文化の中で通過儀礼の度に改名する慣わしもあり、葬儀自体も半生の終わりの通過儀礼と考えれば別段違和感はないが、お布施の額で戒名が変わるという悪習に価値は見出しておらず、どうしても院号が欲しい方は寺院が建つか修復できるほどの額を寄付をし、日頃より揺るぎ無い仏教信者であることをお勧めしたい。浄土真宗のように元々戒名(法名)は釈○○の2文字しかないので差別なく判りやすい宗派もある。

  • お墓

これから新たにお墓を購入する方も、先代からのお墓を継承する方も、とにかくお寺の境内にお墓をお持ちの方が注意しなくてはならないことは、先ほどの葬儀の手法も納骨するお墓が菩提寺に有る場合は、必ず葬儀・供養はその菩提寺の宗派の様式で執り行う必要があるということです
当然葬儀のお経は菩提寺の住職が勤めますので、無宗教葬という訳にはいかないし、戒名はそのご住職が付けることになりますので、お布施もそのご住職との相談で納めることになりますので選択肢はありません。霊園や公営墓地のお墓などお寺とは関係ない場合は、葬儀も自由ですし、親の代の宗派ともこだわり無ければ宗派替えも自由に考えられる。

最近、多いのがお墓の移転。特に地方から都会に移り住み家庭を持った方など、親の代や祖父の代とは異なった地域に住んでいる方にとって、元々いた土地にある先祖からのお墓は悩みの種。兄弟縁者など管理継承者がいれば問題ないが、そうでない場合は遠いお墓だけが残るかたちとなる。最近は年に一度もお参りできず布施だけを菩提寺に収め続ける方もいるが、さすがに次の代までは無理と、新たに自分や家族のためのお墓を近くに購入しそこにご先祖のご遺骨を移す方が増えている。又遠方という理由ではなく、菩提寺の住職の代も替るとそれまでの親しい関係が保てなくなり、又高額の寄付を要求されたりと檀家関係を維持することに価値が見出せない方が離檀するケースも多くなっている。